2012年01月16日
◆情報革命がもたらしたこと
ヒット商品応援団日記No523(毎週更新) 2012.1.16.
前回、あらゆるものが過剰となり価値が下落する、そんなデフレ時代に対する着眼について書いた。案の定というか、すぐさま「食べログ」へのやらせ書き込みについて報道されていた。ランキング順位を上げる為の組織立った書き込みが、39業者に及んでいたということであったが、既に5年程前にもブログが急速に浸透拡大した時も、やらせブログを組織的に行なう新会社が出来ていた。やらせとは情報の価値を意図的に上げ、あたかも抜きん出ているかの如く見せることであるが、演出とは全く異なる嘘情報づくりの一つである。少し前には、佐賀県の九電玄海原発に関するやらせメール問題があったが、膨大な情報のなかでビジネスも生活も全てを行なう時代にあって、避けて通ることができない問題である。
以前にも情報革命という言葉を使ってブログにも書いたが、インターネットの普及によってマスメディア(=オピニオンリーダー)からパーソナルメディア(=個人・大衆)へと情報発信者の主人公が劇的に転換してきたと。その顕著な現象として、政治においてはチュニジアを発端とした「アラブの春」と呼ばれた民主化運動がそうであり、消費においては「食べログ」のようなランキングサイトやレシピ投稿サイトであるクックパッドの日常利用、あるいはツイッターによるパーソナルメディアの活用といったネット情報の活用は当たり前のものとなった。
こうした新しいメディアの出現によって過去10年間で流通する情報量が530倍になったと総務省からの報告もある。勿論、インターネット上のメディアによってであり、Googleなどの検索エンジンによって膨大な情報を取捨選択することが可能になったからである。しかし、Googleは玉石混淆情報の整理や情報の真偽まで検索してくれる訳ではない。こうした膨大な情報、個人の判断を超えた情報が行き交う時代にあって生まれてきたのが、判断基準・拠り所となるものへの「やらせ情報」であり、そうしたやらせを組織だっておこなう問題である。
1990年代後半、インターネットの世界は広大な世界へと直接つながる「どこでもドアー」としてその理想が認識され、急激にあらゆる国、人種、性別、年齢、言語といった壁を超えてあらゆるところへ浸透した。こうしたIT革命の浸透は大きな良き変化をもたらしたのだが、同時に消費面においても前述のような問題を引き起こしてきた。こうした問題解決のために、行き過ぎた振り子を反対の極へと向かわせる動きが3〜4年前から始まっている。デジタルからアナログへ、仮想世界(体験)からリアル世界(体験)へ、インターネットという高速道路を下りて一般国道へ、個人から新たな共同体へ、・・・・・・つまり、ここでも「顔の見える関係」への揺れ戻し変化が見られてきた。
その顔の見える関係の象徴がFacebookやTwitterであろう。匿名という無縁空間として広がるインターネットの世界においても小さな単位へとダウンサイジングが起きているということだ。顔の見える小さな単位であれば「やらせ」はほとんど起こりえない。もし、嘘ややらせが発覚すれば、その共同体から退出させられる。
ところでIT革命のもたらした最大のものがグローバリゼーションである。市場が一つであることは、東日本大震災あるいはタイの洪水被害によってサプライチェーンがいかにグローバル化しているかがより鮮明となった。全てがつながっており、その部品一つが災害などによって供給が寸断された時、どんな事態となるか誰の目にも明らかになった。その時盛んに言われたのが、首都機能の分散を始めリスク分散、小単位化であった。
こうした多極分散の傾向はビジネス以外にも何か世界中を覆っているような感がしてならない。例えば、今EUの危機が更に深刻なものなった言われているが、その危機が財政の問題ではあるが、欧州統合の理念を掲げたEUの中で、右派政党が公然と移民の排斥、ユーロ離脱を訴え支持率を伸ばしていると報道されている。あるいは米国も同様であろう。数年程前から、アフガン、イラク戦争による巨大な戦費支出から財政的にも縮小せざるを得なくなり、昨年夏には米国債がデフォルト(債務不履行)寸前までいったことを想起すれば十分である。つまり、一極集中にあった米国もその力を失い、多極のなかの一国となった。意味的に言えば、ギリシャやイタリアと同じような普通の国になったということである。
国単位、あるいは大きな経済世界でITが直接・間接もたらすことを考えていくと、何が問題であるか論点がぼけてしまうが、日本の、あるいは自分のビジネスや生活を考えて行くともう少し情報革命の意味が見えてくる。こうした一種の気づきのようなものが様々なところに実は現れてきている。
その象徴例と考えられるのが、無店舗(ネット通販)と有店舗(百貨店)のクロスマーチャンダイジングで2年程前から積極的に小売り現場に出てきている。簡単に言ってしまえば、ネット上のお取り寄せヒット商品を百貨店で販売するものだが、いわば「顔の見える場」づくりと言える。こうした異なる流通の在り方をクロスさせていくのもITによるものであろう。更に身近な小売り現場では、面倒な試着もサイズやデザインコーディネーションも着せ替え人形のように瞬時に画面確認出来るIT活用も出てきている。しかし、決める為の相談は、やはり現場の専門スタッフとなる。これもデジタルとアナログのクロス活用である。事例をあげればきりがない程であるが、「顔が見える」ためにうまく組み合わせる方向へと向かっている。
話を戻すが、グローバリゼーションという振り子の反対にあるのがローカライゼーションである。このブログにも「今、地方がおもしろい」と、今なお残る埋もれた地方文化、そのビジネスチャンスについて書いてきた。文脈的に言うならば、地方は「顔の見える共同体」、その生活についてである。産土(うぶすな)という言葉があるが、その土地固有の風土から生まれた産物を指す。今や祭りなどの行事のなかにわずかに残っている程度で、日常生活となるとせいぜい京都ぐらいとなる。その京都や沖縄は閉鎖的であると言われるが、「顔の見えない」よそ者にとってはそう映るのである。
IT革命が進行すればするほど、情報量が増えれば増える程、「顔の見える関係」づくりが重要な課題となる。その関係づくりだが、顧客関係の場合ポイントはそのほどよい距離間、いや距離感と言った方が分かりやすい。共同体であれば、そのサイズ・単位となる。このことの大切さを、あの3.11東日本大震災が教えてくれた。
以前ブログにも書いたことがあったが、近江商人の心得に「三方よし」がある。その近江商人の行商は、他国で商売をし、やがて開店することが本務であり、旅先の人々の信頼を得ることが何より大切であった。つまりよそ者がどう信頼をいかに得るかでその心得である。その心得は売り手よし、買い手よし、世間よし、であるが、この「顔の見える」在り方を見事に表現している。売り手と買い手は顧客関係であり、世間とは共同体のことである。この心得で一番大切なことは何か、それは今昔にかかわらず、商人にとって何よりも大切なものは信用である。その信用のもととなるのは正直であると。つまり、情報こそ正直でなければならないということだ。
その共同体が「顔の見える」共同体として再構築が進んでいる。前述のFacebookやTwitterもそうであり、アナログ世界で言えば、地方の街起こしやB1グランプリなどもそうである。過剰な情報に振り回される、わかったつもりがそうではなかった、・・・・こうした経験を踏まえ、新しい共同体の一員としての生活へと向かう。(続く)
前回、あらゆるものが過剰となり価値が下落する、そんなデフレ時代に対する着眼について書いた。案の定というか、すぐさま「食べログ」へのやらせ書き込みについて報道されていた。ランキング順位を上げる為の組織立った書き込みが、39業者に及んでいたということであったが、既に5年程前にもブログが急速に浸透拡大した時も、やらせブログを組織的に行なう新会社が出来ていた。やらせとは情報の価値を意図的に上げ、あたかも抜きん出ているかの如く見せることであるが、演出とは全く異なる嘘情報づくりの一つである。少し前には、佐賀県の九電玄海原発に関するやらせメール問題があったが、膨大な情報のなかでビジネスも生活も全てを行なう時代にあって、避けて通ることができない問題である。
以前にも情報革命という言葉を使ってブログにも書いたが、インターネットの普及によってマスメディア(=オピニオンリーダー)からパーソナルメディア(=個人・大衆)へと情報発信者の主人公が劇的に転換してきたと。その顕著な現象として、政治においてはチュニジアを発端とした「アラブの春」と呼ばれた民主化運動がそうであり、消費においては「食べログ」のようなランキングサイトやレシピ投稿サイトであるクックパッドの日常利用、あるいはツイッターによるパーソナルメディアの活用といったネット情報の活用は当たり前のものとなった。
こうした新しいメディアの出現によって過去10年間で流通する情報量が530倍になったと総務省からの報告もある。勿論、インターネット上のメディアによってであり、Googleなどの検索エンジンによって膨大な情報を取捨選択することが可能になったからである。しかし、Googleは玉石混淆情報の整理や情報の真偽まで検索してくれる訳ではない。こうした膨大な情報、個人の判断を超えた情報が行き交う時代にあって生まれてきたのが、判断基準・拠り所となるものへの「やらせ情報」であり、そうしたやらせを組織だっておこなう問題である。
1990年代後半、インターネットの世界は広大な世界へと直接つながる「どこでもドアー」としてその理想が認識され、急激にあらゆる国、人種、性別、年齢、言語といった壁を超えてあらゆるところへ浸透した。こうしたIT革命の浸透は大きな良き変化をもたらしたのだが、同時に消費面においても前述のような問題を引き起こしてきた。こうした問題解決のために、行き過ぎた振り子を反対の極へと向かわせる動きが3〜4年前から始まっている。デジタルからアナログへ、仮想世界(体験)からリアル世界(体験)へ、インターネットという高速道路を下りて一般国道へ、個人から新たな共同体へ、・・・・・・つまり、ここでも「顔の見える関係」への揺れ戻し変化が見られてきた。
その顔の見える関係の象徴がFacebookやTwitterであろう。匿名という無縁空間として広がるインターネットの世界においても小さな単位へとダウンサイジングが起きているということだ。顔の見える小さな単位であれば「やらせ」はほとんど起こりえない。もし、嘘ややらせが発覚すれば、その共同体から退出させられる。
ところでIT革命のもたらした最大のものがグローバリゼーションである。市場が一つであることは、東日本大震災あるいはタイの洪水被害によってサプライチェーンがいかにグローバル化しているかがより鮮明となった。全てがつながっており、その部品一つが災害などによって供給が寸断された時、どんな事態となるか誰の目にも明らかになった。その時盛んに言われたのが、首都機能の分散を始めリスク分散、小単位化であった。
こうした多極分散の傾向はビジネス以外にも何か世界中を覆っているような感がしてならない。例えば、今EUの危機が更に深刻なものなった言われているが、その危機が財政の問題ではあるが、欧州統合の理念を掲げたEUの中で、右派政党が公然と移民の排斥、ユーロ離脱を訴え支持率を伸ばしていると報道されている。あるいは米国も同様であろう。数年程前から、アフガン、イラク戦争による巨大な戦費支出から財政的にも縮小せざるを得なくなり、昨年夏には米国債がデフォルト(債務不履行)寸前までいったことを想起すれば十分である。つまり、一極集中にあった米国もその力を失い、多極のなかの一国となった。意味的に言えば、ギリシャやイタリアと同じような普通の国になったということである。
国単位、あるいは大きな経済世界でITが直接・間接もたらすことを考えていくと、何が問題であるか論点がぼけてしまうが、日本の、あるいは自分のビジネスや生活を考えて行くともう少し情報革命の意味が見えてくる。こうした一種の気づきのようなものが様々なところに実は現れてきている。
その象徴例と考えられるのが、無店舗(ネット通販)と有店舗(百貨店)のクロスマーチャンダイジングで2年程前から積極的に小売り現場に出てきている。簡単に言ってしまえば、ネット上のお取り寄せヒット商品を百貨店で販売するものだが、いわば「顔の見える場」づくりと言える。こうした異なる流通の在り方をクロスさせていくのもITによるものであろう。更に身近な小売り現場では、面倒な試着もサイズやデザインコーディネーションも着せ替え人形のように瞬時に画面確認出来るIT活用も出てきている。しかし、決める為の相談は、やはり現場の専門スタッフとなる。これもデジタルとアナログのクロス活用である。事例をあげればきりがない程であるが、「顔が見える」ためにうまく組み合わせる方向へと向かっている。
話を戻すが、グローバリゼーションという振り子の反対にあるのがローカライゼーションである。このブログにも「今、地方がおもしろい」と、今なお残る埋もれた地方文化、そのビジネスチャンスについて書いてきた。文脈的に言うならば、地方は「顔の見える共同体」、その生活についてである。産土(うぶすな)という言葉があるが、その土地固有の風土から生まれた産物を指す。今や祭りなどの行事のなかにわずかに残っている程度で、日常生活となるとせいぜい京都ぐらいとなる。その京都や沖縄は閉鎖的であると言われるが、「顔の見えない」よそ者にとってはそう映るのである。
IT革命が進行すればするほど、情報量が増えれば増える程、「顔の見える関係」づくりが重要な課題となる。その関係づくりだが、顧客関係の場合ポイントはそのほどよい距離間、いや距離感と言った方が分かりやすい。共同体であれば、そのサイズ・単位となる。このことの大切さを、あの3.11東日本大震災が教えてくれた。
以前ブログにも書いたことがあったが、近江商人の心得に「三方よし」がある。その近江商人の行商は、他国で商売をし、やがて開店することが本務であり、旅先の人々の信頼を得ることが何より大切であった。つまりよそ者がどう信頼をいかに得るかでその心得である。その心得は売り手よし、買い手よし、世間よし、であるが、この「顔の見える」在り方を見事に表現している。売り手と買い手は顧客関係であり、世間とは共同体のことである。この心得で一番大切なことは何か、それは今昔にかかわらず、商人にとって何よりも大切なものは信用である。その信用のもととなるのは正直であると。つまり、情報こそ正直でなければならないということだ。
その共同体が「顔の見える」共同体として再構築が進んでいる。前述のFacebookやTwitterもそうであり、アナログ世界で言えば、地方の街起こしやB1グランプリなどもそうである。過剰な情報に振り回される、わかったつもりがそうではなかった、・・・・こうした経験を踏まえ、新しい共同体の一員としての生活へと向かう。(続く)
2012年01月04日
◆総デフレ時代の着眼
ヒット商品応援団日記No522(毎週更新) 2012.1.4.
新年明けましておめでとうございます。
例年であると新聞各社の元旦号を斜め読みし、どんな一年となるのか私見をブログに書くのだが、3.11を始めとした日本の危機については多くの専門家によって昨年から語られているのでこのブログには取り上げないこととする。
私の専門領域は消費を通じた生活者研究であり、そこに見られる価値観の変化を見出すことにある。いわば選ばれる理由は何か、を明らかにすることである。そして、5年程前から再三再四ブログに取り上げてきたのが価格戦略、低価格にどう立ち向かうのかであった。
ところでデフレの定義であるが、OECDによると「一般物価水準が継続的に下落する情況」をデフレとしているが、こうした価格価値が下がり続ける経済の問題としてだけではなく、あらゆる面において旧来価値の下落が取り巻いていることを指摘してみたい。
価値の下落によって引き起こされる混乱、あるいは混沌について様々な変化事象が起きている。その象徴である地価は下がることはないとされてきた銀座の地価が下落した。銀座を代表する百貨店とインポートブランドによってつくられてきた街の風景に、ユニクロやH&Mといったファストファッション、カジュアル衣料量販店のフラッグショップが続々と出店し街の風景を一変させた。つまり、グローバル市場の象徴都市である東京銀座は、ある意味世界の主要都市と同様となった。
価値の下落、その価値とは従来価値あるとされてきたものの下落である。その冴えたるものの一つが情報であろう。周知のように、インターネットによるブログやYouTube、あるいはツイッターといった個人情報局の出現によって、既存メディアによる情報価値は総体的に下落した。例えば、その象徴例が既存雑誌が部数を落とし、あるいは廃刊していくなかで、宝島社の付録付き雑誌が部数を伸ばし、他の雑誌社も付録付き雑誌の発売へと追随した。書店は情報販売と共に、多様なグッズの販売をも引き受けることとなった。
実は高度情報化社会とはあらゆるものがメディアとなることが出来、情報を発信することができる社会のことである。街も、人も、ファッションも、勿論商品も、情報発信メディアとなる。そして、一挙にあらゆる世界に情報が押し寄せてくることとなる。ビジネスは勿論のこと、学校にも、家庭やコミュニティにも、人が集まるところに凄まじいスピードで駆け抜ける社会となった。
情報発信者はこうした量的にもスピード的にも、勝ち抜き伝達すべく、更にこれでもかと情報を発信する。過剰な情報、過剰な言葉が行き交い、演出というやらせが多発し、誰よりもどこよりも早く発信するためにメッセージは圧縮され、キーワード化されスピードを競うこととなる。結果、どんなことが生まれてくるか。圧縮されたメッセージ、その内実、深みの無い上滑りなメッセージとして「わかったつもり」となる。
言葉のデフレである。ここ10年程の政治の世界を見れば政治家の言葉の軽さだけではなく、自らメディア足りえる為にTV番組に露出することだけを求めて出演する。つまり、選挙は人気投票になってしまったということだ。そして、選挙民も過剰な期待を政治家に求め、それが過剰であるが故に時間経過と共に支持率は下がり、5年間で6人の総理大臣を誕生させることとなる。
「わかったつもり」が過剰を加速させてしまっているということである、このことに生活者は次第に気づき始めて来た。断捨離の勧めもそうであるし、ヴァーチャルからリアル体験もそうである。つまり暮らしに何が必要か、削ぎ落とし、更に削ぎ落としてなお残るもの、本質を求めるようになってきた。本質という言葉を、例えばこれだけは好きで好きで手放せないもの、これさえあれば他はいらない、そんな消費態度に置き換えてもかまわない。
更に言えば、オリコンによる昨年の音楽ランキングではAKB48が上位5曲を占め、大人にヒットした曲がなく、相変わらずCDは売れない状態が続いている。しかし、音楽そのものの不況ではなく、ライブハウスはどこも一杯であるし、ライブコンサートには多くのフアンが押し寄せている。何故か、音楽の本質はライブにあるという至極当たり前のことに気づいたからである。上位5曲を総なめにしたあのAKB48も会いに行けるアイドルとして秋葉原のビルに常設舞台を持っている。
こうした本質に戻る動きを更に強烈に教えられたのが、3.11である。節電を始めとした「省」のライフスタイルへと向かうのだが、あの被災地の衝撃に対し、豊かで便利な都市生活への原罪意識がどこかにあったことも事実である。
ところで日本には「用の美」という考え、いや美学思想がある。勿体ない精神の根底にある美学、使い続ける美学、生活美学。少し理屈っぽくなるが、使われ続けるという時を積み重ね、何層にも積み重ねられた顧客の使用価値集積の美学と言った方が分かりやすい。そこには「あっ」と驚くような美はないが、何故かしっくりする、手に馴染む、変わらないけれどそれがうれしい、そんな美への共感である。食で言えば、変わらぬ味、ふっと和む味、何度食べても飽きない味、そんな表現となる。そうした美への共感を元に、実は「信用」が生まれてくる。私たちは、それを「暖簾」と呼んできた。暖簾をブランドに置き換えても同じである。それは大企業であれ、商店街のお惣菜屋でも同じである。大きな価値潮流に置き換えて言うと、トレンドライフから、ロングライフへと価値の転換が起き始めているということだ。3.11はそうした物の本質価値を思い起こさせてくれた。節電を始めとした節約がキーワード化されてきたが、その根底にある価値観は、使い捨て消費文化から、使えば使う程愛着が湧く消費文化への回帰であろう。
この「用の美学」と相通ずるのが「用の技術」である。日本の製造業を支えている中小下町工場の職人技術と言った方が分かりやすい。それは技術を超えた、職人芸に入っている。こうした「技」は製造業だけでなく、農業にも、漁業にもある。農作物の品種改良、高品質な肉牛、・・・・・・・世界に誇れる輸出商品となっているのはこうした技によってだ。あるいは今回の東日本大震災の大津波によって壊滅的になった牡蠣養殖を見ればどれだけの技によってなされているか分かるであろう。豊かな海づくり、その養分であるプランクトンは、まず山に木を植えることから始め豊か栄養豊富な海をつくる、そんな漁業法は日本だけであろう。
日本社会はこうした職人社会によって今日がある。問題は、こうした技や方法を新しい市場へとマーケティングしてこなかったということだ。多くの場合、職人は寡黙である。社会に横溢する過剰な言葉は寡黙を更に進め沈黙へと向かう。そして、ともすると埋もれた宝に気がつかないで通り過ぎてしまう。地方を歩くとわかるが、いくらでも磨けば宝物となる素材はある。
失われた20年と言われるが、その根底にあるのが「成長」という視座である。財テクの失敗を今なお引きずっていたオリンパスを見るにつけ、ガバナンスの問題であると指摘されているが、その根底には成長神話があったと考えている。原発への安全神話だけでなく、既成を取り囲む多くの神話を自ら壊すことが必要な時代である。
以前、潰れない会社の持続力は何か、という内容のブログを書いたことがあった。周知の世界最古の企業金剛組という宮大工の会社についてである。創業1400年以上、聖徳太子の招聘で朝鮮半島の百済から来た3人の工匠の一人が創業したと言われ、日本書紀にも書かれている会社である。日本にはこの金剛組を含め、創業200年以上の老舗企業ではだんとつ日本が1位で約3000社、2位がドイツで約800社、3位はオランドの約200社、米国は4位でなんと14社しかない。
当然の如く、「なぜ、日本だけ老舗企業が生き残るのか?」という疑問が湧いてくる。結論から言えば、根底には継承されるに足る「技」と「人」がいたということである。
過剰が取り巻くデフレの時代にあって、取り戻すべきはこうした本質回帰である。本質回帰などと言うと、何か構えてしまいがちだが、好奇心をもって顧客を、市場を観察してみることから始めれば良い。何が見えてきたか、日頃見えてこなかったものもある筈だ。保有する技は役に立つか、役立つためには更にどんな技が必要か、こうした知恵が「次」へとつながる。そこにこそ成長がある。日本に少し前までごく当たり前であった商人・職人の心構えや技に着眼すべきということだ。(続く)
新年明けましておめでとうございます。
例年であると新聞各社の元旦号を斜め読みし、どんな一年となるのか私見をブログに書くのだが、3.11を始めとした日本の危機については多くの専門家によって昨年から語られているのでこのブログには取り上げないこととする。
私の専門領域は消費を通じた生活者研究であり、そこに見られる価値観の変化を見出すことにある。いわば選ばれる理由は何か、を明らかにすることである。そして、5年程前から再三再四ブログに取り上げてきたのが価格戦略、低価格にどう立ち向かうのかであった。
ところでデフレの定義であるが、OECDによると「一般物価水準が継続的に下落する情況」をデフレとしているが、こうした価格価値が下がり続ける経済の問題としてだけではなく、あらゆる面において旧来価値の下落が取り巻いていることを指摘してみたい。
価値の下落によって引き起こされる混乱、あるいは混沌について様々な変化事象が起きている。その象徴である地価は下がることはないとされてきた銀座の地価が下落した。銀座を代表する百貨店とインポートブランドによってつくられてきた街の風景に、ユニクロやH&Mといったファストファッション、カジュアル衣料量販店のフラッグショップが続々と出店し街の風景を一変させた。つまり、グローバル市場の象徴都市である東京銀座は、ある意味世界の主要都市と同様となった。
価値の下落、その価値とは従来価値あるとされてきたものの下落である。その冴えたるものの一つが情報であろう。周知のように、インターネットによるブログやYouTube、あるいはツイッターといった個人情報局の出現によって、既存メディアによる情報価値は総体的に下落した。例えば、その象徴例が既存雑誌が部数を落とし、あるいは廃刊していくなかで、宝島社の付録付き雑誌が部数を伸ばし、他の雑誌社も付録付き雑誌の発売へと追随した。書店は情報販売と共に、多様なグッズの販売をも引き受けることとなった。
実は高度情報化社会とはあらゆるものがメディアとなることが出来、情報を発信することができる社会のことである。街も、人も、ファッションも、勿論商品も、情報発信メディアとなる。そして、一挙にあらゆる世界に情報が押し寄せてくることとなる。ビジネスは勿論のこと、学校にも、家庭やコミュニティにも、人が集まるところに凄まじいスピードで駆け抜ける社会となった。
情報発信者はこうした量的にもスピード的にも、勝ち抜き伝達すべく、更にこれでもかと情報を発信する。過剰な情報、過剰な言葉が行き交い、演出というやらせが多発し、誰よりもどこよりも早く発信するためにメッセージは圧縮され、キーワード化されスピードを競うこととなる。結果、どんなことが生まれてくるか。圧縮されたメッセージ、その内実、深みの無い上滑りなメッセージとして「わかったつもり」となる。
言葉のデフレである。ここ10年程の政治の世界を見れば政治家の言葉の軽さだけではなく、自らメディア足りえる為にTV番組に露出することだけを求めて出演する。つまり、選挙は人気投票になってしまったということだ。そして、選挙民も過剰な期待を政治家に求め、それが過剰であるが故に時間経過と共に支持率は下がり、5年間で6人の総理大臣を誕生させることとなる。
「わかったつもり」が過剰を加速させてしまっているということである、このことに生活者は次第に気づき始めて来た。断捨離の勧めもそうであるし、ヴァーチャルからリアル体験もそうである。つまり暮らしに何が必要か、削ぎ落とし、更に削ぎ落としてなお残るもの、本質を求めるようになってきた。本質という言葉を、例えばこれだけは好きで好きで手放せないもの、これさえあれば他はいらない、そんな消費態度に置き換えてもかまわない。
更に言えば、オリコンによる昨年の音楽ランキングではAKB48が上位5曲を占め、大人にヒットした曲がなく、相変わらずCDは売れない状態が続いている。しかし、音楽そのものの不況ではなく、ライブハウスはどこも一杯であるし、ライブコンサートには多くのフアンが押し寄せている。何故か、音楽の本質はライブにあるという至極当たり前のことに気づいたからである。上位5曲を総なめにしたあのAKB48も会いに行けるアイドルとして秋葉原のビルに常設舞台を持っている。
こうした本質に戻る動きを更に強烈に教えられたのが、3.11である。節電を始めとした「省」のライフスタイルへと向かうのだが、あの被災地の衝撃に対し、豊かで便利な都市生活への原罪意識がどこかにあったことも事実である。
ところで日本には「用の美」という考え、いや美学思想がある。勿体ない精神の根底にある美学、使い続ける美学、生活美学。少し理屈っぽくなるが、使われ続けるという時を積み重ね、何層にも積み重ねられた顧客の使用価値集積の美学と言った方が分かりやすい。そこには「あっ」と驚くような美はないが、何故かしっくりする、手に馴染む、変わらないけれどそれがうれしい、そんな美への共感である。食で言えば、変わらぬ味、ふっと和む味、何度食べても飽きない味、そんな表現となる。そうした美への共感を元に、実は「信用」が生まれてくる。私たちは、それを「暖簾」と呼んできた。暖簾をブランドに置き換えても同じである。それは大企業であれ、商店街のお惣菜屋でも同じである。大きな価値潮流に置き換えて言うと、トレンドライフから、ロングライフへと価値の転換が起き始めているということだ。3.11はそうした物の本質価値を思い起こさせてくれた。節電を始めとした節約がキーワード化されてきたが、その根底にある価値観は、使い捨て消費文化から、使えば使う程愛着が湧く消費文化への回帰であろう。
この「用の美学」と相通ずるのが「用の技術」である。日本の製造業を支えている中小下町工場の職人技術と言った方が分かりやすい。それは技術を超えた、職人芸に入っている。こうした「技」は製造業だけでなく、農業にも、漁業にもある。農作物の品種改良、高品質な肉牛、・・・・・・・世界に誇れる輸出商品となっているのはこうした技によってだ。あるいは今回の東日本大震災の大津波によって壊滅的になった牡蠣養殖を見ればどれだけの技によってなされているか分かるであろう。豊かな海づくり、その養分であるプランクトンは、まず山に木を植えることから始め豊か栄養豊富な海をつくる、そんな漁業法は日本だけであろう。
日本社会はこうした職人社会によって今日がある。問題は、こうした技や方法を新しい市場へとマーケティングしてこなかったということだ。多くの場合、職人は寡黙である。社会に横溢する過剰な言葉は寡黙を更に進め沈黙へと向かう。そして、ともすると埋もれた宝に気がつかないで通り過ぎてしまう。地方を歩くとわかるが、いくらでも磨けば宝物となる素材はある。
失われた20年と言われるが、その根底にあるのが「成長」という視座である。財テクの失敗を今なお引きずっていたオリンパスを見るにつけ、ガバナンスの問題であると指摘されているが、その根底には成長神話があったと考えている。原発への安全神話だけでなく、既成を取り囲む多くの神話を自ら壊すことが必要な時代である。
以前、潰れない会社の持続力は何か、という内容のブログを書いたことがあった。周知の世界最古の企業金剛組という宮大工の会社についてである。創業1400年以上、聖徳太子の招聘で朝鮮半島の百済から来た3人の工匠の一人が創業したと言われ、日本書紀にも書かれている会社である。日本にはこの金剛組を含め、創業200年以上の老舗企業ではだんとつ日本が1位で約3000社、2位がドイツで約800社、3位はオランドの約200社、米国は4位でなんと14社しかない。
当然の如く、「なぜ、日本だけ老舗企業が生き残るのか?」という疑問が湧いてくる。結論から言えば、根底には継承されるに足る「技」と「人」がいたということである。
過剰が取り巻くデフレの時代にあって、取り戻すべきはこうした本質回帰である。本質回帰などと言うと、何か構えてしまいがちだが、好奇心をもって顧客を、市場を観察してみることから始めれば良い。何が見えてきたか、日頃見えてこなかったものもある筈だ。保有する技は役に立つか、役立つためには更にどんな技が必要か、こうした知恵が「次」へとつながる。そこにこそ成長がある。日本に少し前までごく当たり前であった商人・職人の心構えや技に着眼すべきということだ。(続く)
2011年12月16日
◆2011年ヒット商品番付を読み解く
ヒット商品応援団日記No521(毎週更新) 2011.12.16.
2005年夏に始めたブログも6年半近く経過した。スタート当初は理屈の多いブログであったが、次第に「消費の変化」を通じて、経済ばかりでなく、社会や文化の変化・推移を見ていくといったスタイルへと変化してきた。そのなかでも、日経MJのヒット商品番付は全てではないが、時代を映し出しているものの一つである。
ところで2011年上半期には東西横綱に該当するヒット商品はないとした日経MJであるが、今年の横綱をはじめ主要なヒット商品は以下とした。
東横綱 アップル、 西横綱 節電商品
東大関 アンドロイド端末、 西大関 なでしこジャパン
東関脇 フェイスブック、西関脇 有楽町(ルミネ&阪急メンズ館)
東小結 ミラーイース&デミオ、 西小結 九州新幹線&JR博多シティ
2011年度の新語流行語大賞、あるいは世相を表す恒例の一文字「絆」も東日本大震災に関連したものばかりである。つまり、ライフスタイル価値観そのものへ変化を促すほどの大きな衝撃であったということだ。西の横綱に節電商品が入っているが、例えば扇風機を代表とした節電ツールや暑さを工夫した涼感衣料が売れただけではなく、今は暖房こたつや軽くて暖かいダウンが売れている。震災時に電話が通じない状態のなかで家族と連絡を取り合ったFacebookといった情報端末やサイトの活用。震災復興の応援ファンドにツイッターが使われたこと等、スマートフォンやタブレット端末も震災との関連で大きく需要を伸ばすこととなった。
震災から9ヶ月既に年末商戦に入っているが、百貨店を始めほとんどの流通のテーマは世相を表す「絆」ではないが、人と人とを結びつける商品や場づくりとなっている。阪神淡路大震災の時と同様に、東日本大震災後婚約指輪が大きく需要を伸ばした。こうした消費は一つの象徴であるが、母の日ギフトや誕生日ギフトなどいわゆる記念日消費に注目が集まった。
あるいは家族や友人といった複数の人間が一つ鍋を挟んだ食事は、家庭でも居酒屋でも日常風景となった。こうした傾向、「絆消費」は一過性のものではなく、今後も続くであろう。そして、前回も書いたが「国民総幸福量」の国、ブータンの国王夫妻の来日は、人と人との絆、その精神世界にこそ幸せがあることを再確認させてくれたということだ。
日経MJでは取り上げていなかったが、東日本大震災によって新たに生まれた市場が自己防衛市場である。「絆」とは真逆のように見えるかもしれないが、自然災害などに対しては自らを守る志向が極めて強く出てきている。防災グッズは言うに及ばず、電気自動車を蓄電池代わりとする。帰宅難民化に対処するために自転車が飛ぶように売れ、避難住宅にもなるとしてキャンピングカーまで売れ行きを伸ばした。また、主婦感覚とでも言うべきなのか、賞味期限の長い日持ちする商品が売れている。ソーセージなどがその代表であるが、従来鮮度価値の日配品と言われてきた牛乳やお豆腐にも賞味期限の長い新商品が出てきた。こうした商品以外にも、レトルト食品や缶詰も再認識されている。
ところで、液状化を恐れ売れ行きが難しいとされた東京湾岸の高層マンションが意外にも好調な売れ行きを見せている。液状化への更なる地盤対策、あるいは地震による周期地振動対策、・・・・・多くの教訓を踏まえたものであるが、なんと言っても都心から歩いて帰宅出来る点が再認識されたようである。
また、福島原発事故による放射能汚染に対する自己防衛策は子育て中の母親を中心に防衛のための活動が活発化した。放射能汚染が広範囲に渡ることが明らかになった3月末、私は放射能の線量計がヒット商品になるとブログに書いたが、残念ながら現実のものとなってしまった。そして、汚染された農畜産物、水産物といった食への不安は、二転三転する政府の安全基準にあって自ら基準を持つ生活者が増えてきた。
マスメディアを含め、「風評被害」という一言で全て片づけてしまうが、こうした「不確かな情報」こそが、風評を産む原因になっている。やっとここ数ヶ月前から「汚染の見える化」が小売店頭において始まった。繰り返し言うが、命にかかわるような重要なことで、しかもあいまい・不確かであった時、うわさは生起し、しかも連鎖し続ける。その連鎖の先は元となった情報とは全く異なったものとなる。それを私たちはうわさではなく、デマと呼んでいる。
ところで東日本大震災の衝撃によって見失いがちの消費がある。それは西関脇に入った有楽町(ルミネ&阪急メンズ館)であり、九州新幹線の開通による効果も踏まえたJR博多シティという2つの商業施設である。特に、有楽町ルミネについてはその出店専門店の顔ぶれを見てそれなりの売上をあげるであろうと思っていたが、旧西武百貨店との時とは全く異なった館内レイアウト&動線のつくりがプロの目から見てもうまくつくられていると感じられる。特に、A館とB館をつなぐ動線のつくり方などがそうで、従来のおおざっぱな売り場づくりとは正反対のディテールにも美意識が感じられるものとなっている。また、JR博多シティを見てきた友人の感想であるが、九州ならではの未だ知られていない食の専門店がかなり出店していて、金太郎飴の如き顔ぶれの専門店集積SCとは一味異なっているとのこと。両SCは勿論コンセプトも異なるものであるが、次なる消費を踏まえていることは間違いない。
3.11以降いくつかの商業施設を見てきたが、東京においては11月ぐらいからかなり旺盛な消費が見られ始め、この12月に入り、昨年より良い売上の商業施設も出てきている。年末には2012年度の消費傾向をまとめの意味を含め書いてみたい。(続く)
2005年夏に始めたブログも6年半近く経過した。スタート当初は理屈の多いブログであったが、次第に「消費の変化」を通じて、経済ばかりでなく、社会や文化の変化・推移を見ていくといったスタイルへと変化してきた。そのなかでも、日経MJのヒット商品番付は全てではないが、時代を映し出しているものの一つである。
ところで2011年上半期には東西横綱に該当するヒット商品はないとした日経MJであるが、今年の横綱をはじめ主要なヒット商品は以下とした。
東横綱 アップル、 西横綱 節電商品
東大関 アンドロイド端末、 西大関 なでしこジャパン
東関脇 フェイスブック、西関脇 有楽町(ルミネ&阪急メンズ館)
東小結 ミラーイース&デミオ、 西小結 九州新幹線&JR博多シティ
2011年度の新語流行語大賞、あるいは世相を表す恒例の一文字「絆」も東日本大震災に関連したものばかりである。つまり、ライフスタイル価値観そのものへ変化を促すほどの大きな衝撃であったということだ。西の横綱に節電商品が入っているが、例えば扇風機を代表とした節電ツールや暑さを工夫した涼感衣料が売れただけではなく、今は暖房こたつや軽くて暖かいダウンが売れている。震災時に電話が通じない状態のなかで家族と連絡を取り合ったFacebookといった情報端末やサイトの活用。震災復興の応援ファンドにツイッターが使われたこと等、スマートフォンやタブレット端末も震災との関連で大きく需要を伸ばすこととなった。
震災から9ヶ月既に年末商戦に入っているが、百貨店を始めほとんどの流通のテーマは世相を表す「絆」ではないが、人と人とを結びつける商品や場づくりとなっている。阪神淡路大震災の時と同様に、東日本大震災後婚約指輪が大きく需要を伸ばした。こうした消費は一つの象徴であるが、母の日ギフトや誕生日ギフトなどいわゆる記念日消費に注目が集まった。
あるいは家族や友人といった複数の人間が一つ鍋を挟んだ食事は、家庭でも居酒屋でも日常風景となった。こうした傾向、「絆消費」は一過性のものではなく、今後も続くであろう。そして、前回も書いたが「国民総幸福量」の国、ブータンの国王夫妻の来日は、人と人との絆、その精神世界にこそ幸せがあることを再確認させてくれたということだ。
日経MJでは取り上げていなかったが、東日本大震災によって新たに生まれた市場が自己防衛市場である。「絆」とは真逆のように見えるかもしれないが、自然災害などに対しては自らを守る志向が極めて強く出てきている。防災グッズは言うに及ばず、電気自動車を蓄電池代わりとする。帰宅難民化に対処するために自転車が飛ぶように売れ、避難住宅にもなるとしてキャンピングカーまで売れ行きを伸ばした。また、主婦感覚とでも言うべきなのか、賞味期限の長い日持ちする商品が売れている。ソーセージなどがその代表であるが、従来鮮度価値の日配品と言われてきた牛乳やお豆腐にも賞味期限の長い新商品が出てきた。こうした商品以外にも、レトルト食品や缶詰も再認識されている。
ところで、液状化を恐れ売れ行きが難しいとされた東京湾岸の高層マンションが意外にも好調な売れ行きを見せている。液状化への更なる地盤対策、あるいは地震による周期地振動対策、・・・・・多くの教訓を踏まえたものであるが、なんと言っても都心から歩いて帰宅出来る点が再認識されたようである。
また、福島原発事故による放射能汚染に対する自己防衛策は子育て中の母親を中心に防衛のための活動が活発化した。放射能汚染が広範囲に渡ることが明らかになった3月末、私は放射能の線量計がヒット商品になるとブログに書いたが、残念ながら現実のものとなってしまった。そして、汚染された農畜産物、水産物といった食への不安は、二転三転する政府の安全基準にあって自ら基準を持つ生活者が増えてきた。
マスメディアを含め、「風評被害」という一言で全て片づけてしまうが、こうした「不確かな情報」こそが、風評を産む原因になっている。やっとここ数ヶ月前から「汚染の見える化」が小売店頭において始まった。繰り返し言うが、命にかかわるような重要なことで、しかもあいまい・不確かであった時、うわさは生起し、しかも連鎖し続ける。その連鎖の先は元となった情報とは全く異なったものとなる。それを私たちはうわさではなく、デマと呼んでいる。
ところで東日本大震災の衝撃によって見失いがちの消費がある。それは西関脇に入った有楽町(ルミネ&阪急メンズ館)であり、九州新幹線の開通による効果も踏まえたJR博多シティという2つの商業施設である。特に、有楽町ルミネについてはその出店専門店の顔ぶれを見てそれなりの売上をあげるであろうと思っていたが、旧西武百貨店との時とは全く異なった館内レイアウト&動線のつくりがプロの目から見てもうまくつくられていると感じられる。特に、A館とB館をつなぐ動線のつくり方などがそうで、従来のおおざっぱな売り場づくりとは正反対のディテールにも美意識が感じられるものとなっている。また、JR博多シティを見てきた友人の感想であるが、九州ならではの未だ知られていない食の専門店がかなり出店していて、金太郎飴の如き顔ぶれの専門店集積SCとは一味異なっているとのこと。両SCは勿論コンセプトも異なるものであるが、次なる消費を踏まえていることは間違いない。
3.11以降いくつかの商業施設を見てきたが、東京においては11月ぐらいからかなり旺盛な消費が見られ始め、この12月に入り、昨年より良い売上の商業施設も出てきている。年末には2012年度の消費傾向をまとめの意味を含め書いてみたい。(続く)
2011年11月28日
◆ブータン国王夫妻来日、TPP、そしてテラスモール湘南
ヒット商品応援団日記No520(毎週更新) 2011.11.28.
前回もそうであったが、忙しさにかまけてブログの更新に1ヶ月以上かかってしまった。ところで、6月のブログで「小さなブータン国に学ぶ」というタイトルで幸福とは何かについて私見を書いた。3.11以降の価値観変化の先に見え隠れする「幸せって何!日本って・・・」と書き、人口70万人という小さなブータン国の成長と東北3県の復興を重ね合わせたブログであった。そして、次のようにも書いた。
「国民総幸福量という視座も復興構想の一つになりえると思う。もう一つの国づくりを東北で行うということである。つまり、東北3県に無数の小さなブータン国が生まれるということだ」と。
その国王夫妻が来日し被災地福島を訪れ、国会においてもその爽やかな幸福論の一端を見せ勇気づけてくれた。その演説のなかでブータン国を次のように表現していた。
「国の魅力的な外形的特徴と、豊かで人の心をとらえて離さない歴史が、ブータン人の人格や性質を形作っています。ブータンは美しい国であり、面積が小さいながらも国土全体に拡がるさまざまな異なる地形に数々の寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を反映しています。手付かずの自然が残されており、我々の文化と伝統は今も強靭に活気を保っています。ブータン人は何世紀も続けてきたように人々のあいだに深い調和の精神を持ち、質素で謙虚な生活を続けています。」
多くの日本国民がこの演説に心動かされたのも、戦後の工業化、近代化によって無くしつつあるものを思い起こさせてくれたからであろう。演説のなかで使われているキーワードの一つが「調和の精神」である。
こうした「調和」というキーワードにふさわしい穏やかな優しい笑顔を見せてくれたブータン国王夫妻であるが、一方ではTPP参加の是非についての議論が始まった。「調和」とは反対の極にあるようなグローバル競争についての論議である。何度となくグローバル市場について書いてきたが、短絡的ではあるが一言で言えば、販売対象とする市場ばかりか生産拠点や就業労働者を含めたビジネスが地球規模に広がり、関税を含めた障壁を撤廃して自由競争を行なうということである。つまり、顧客支持を得た強いものが勝つという市場のことである。弱肉強食といえばそうであるし、恐らくスタートしてから一定期間は企業間、地域間、個人の間の経済格差はより激しくなる。つまり、勝者は大きな利益を得、敗者は市場から消えてゆくということである。課題は産業構造が変化した時、就業していた人達が、新産業へとうまく移行できるかにかかっている。そして、この時期冷静に過去の歴史、産業転換の歴史を辿ってみることも必要で、俯瞰的に見れば日本国内においては市場の多くは既にグローバル化しているという事実である。
さてこのグローバル化はいつから始まったのかというと、例えば私がテーマとする消費に密接な小売業の分野では地元商店の保護を目的として1970年代に制定された大店法があった。確か1990年代初頭の日米構造協議のテーマの一つであったと思うが、米国の外圧により規制が緩和され、そして廃止された。その結果、大型商業施設が次々と地方都市の郊外に誕生する。そして、次第に地方都市の中心市街地には競争結果として空き店舗が目立つようになり、やがてシャッター通り化し、今日に至る。
TPPの詳細内容は未だ明らかにはなっていないが、この日米構造協議を経た大店法の廃止とどこか似ている。勿論、その後地域商業の活性、空洞化した中心市街地の再生を目的に、いわゆる「まちづくり三法」が制定されたが、周知の通り地方再生への道のりはまだまだ遠い。
以前、東京で勝ち残れれば世界の都市への進出の入り口になる。東京は東京であると同時にTOKYOでもあるとブログにも書いた。自動車産業を始めとした製造業だけがグローバル競争しているわけではない。例えばユニクロはNYでも上海においても、GAPやZARA、H&Mといった企業と競争している。流通も百貨店だけでなく、ファミリーマートのようなコンビニも中国へと進出し、ラーメンを始めとした飲食業もかなり前から東南アジアを中心にグローバル化している。いや、こうした第三次産業の例を挙げるまでもなく、誰もが知っているアニメ、マンガ、といったサブカルチャーを筆頭に「クールジャパン」商品群が世界中を駆け巡っており、その流れの先には注目の「AKB48」も入ってきた。
ところで仕事上、先日神奈川辻堂にオープンした「テラスモール湘南」を見てきた。住商アーバン開発が開発した店舗面積6万3000平方メートルという巨大商業施設である。店舗数281店、つまり日経MJは”テナント多彩 楽しみ<一人十色>”と表現したが、他の商業施設に出店している主要専門店のほとんどが金太郎飴の如く勢揃いしたということである。近隣の駅ビル商業施設を始め旧商店街などには大きな影響が出てくることは間違いない。ただですら空き店舗が目立つ地方商店街はシャッター通り化するであろう。
この「テラスモール湘南」の出店企業を見ていくと、既に押し寄せるグローバル化の波がわかりやすく出ている。多くの海外企業が日本に進出しているが、まだまだ進出していない企業もあり、例えば英国から日本初出店の「キャズカフェ」には長い行列が出来ていた。そして、周知のGAP、ZARA、H&M、と共に日本企業ではユニクロ、無印良品、といった世界の主要都市で競争しているカジュアル衣料量販専門店群も出店している。このユニクロも無印良品もヨーロッパに進出し大きな失敗をし、それら経験を踏まえて今日に至っている。
しかし、こうした企業群を見ていくとグローバリズム一色のように見えるが、けっしてそうではない。1Fの食品フロアやフードコートを含め食品専門店や飲食施設のなかには、数は少ないが横浜や鎌倉の名店が出店している。
一年程前であったと思うが、「ユニクロ栄えて、国滅ぶ」と、国内産業の空洞化とデフレを促進させる元凶であると月刊誌の掲載を通じ発言した経済学者がいた。しかし、大量生産、大量販売によって、均質な製品をどんな場所でも安く手に入れることが可能となった。ユニクロがいみじくも代表するように、物質的な豊かさを手に入れてきたことは事実である。あるいは地方都市の郊外に進出している大型商業施設は買物だけでなく、映画を観たりゲームをしたり、家族で食事もして楽しく半日を過ごすことができるようになった。しかし、中心市街地の商店街はシャッター通り化し、更には進出した大型商業施設自体が経営に行き詰まり、撤退した後はどうなったか。何年もの間、閉鎖され野ざらし状態が続いているのも事実である。そして、今夜の夕食を相談する魚屋や八百屋はなくなり、デパ地下やスーパーには調理済みのパック惣菜ばかりが店頭に並ぶようになった。我が地方の味、我が家の味、おふくろの味は給食とデパ地下&コンビニの味にとって代わった。こうした均質さから脱却するかのように、クッキングスクールがはやり、使って楽しいキッチングッズが多数生まれた。B級グルメのグランプリが注目されるのも、おうちでご飯がブームになるのも、手作り、、ここだけ、固有、・・・・・少し大げさではあるが地域や家庭文化への興味と回帰といった現象が消費のいたるところで出てきている。ある意味、デパ地下のお惣菜も買うが、週末だけは手作り料理を楽しむといったバランスのとれたライフスタイルに向かっているということだ。
大分長くなってしまった。次回もグローバリズムとローカリズム、競争と調和、均質と固有、変化と移動、・・・・・・・・この時代の大きなテーマについて引き続き書いてみたい。(続く)
前回もそうであったが、忙しさにかまけてブログの更新に1ヶ月以上かかってしまった。ところで、6月のブログで「小さなブータン国に学ぶ」というタイトルで幸福とは何かについて私見を書いた。3.11以降の価値観変化の先に見え隠れする「幸せって何!日本って・・・」と書き、人口70万人という小さなブータン国の成長と東北3県の復興を重ね合わせたブログであった。そして、次のようにも書いた。
「国民総幸福量という視座も復興構想の一つになりえると思う。もう一つの国づくりを東北で行うということである。つまり、東北3県に無数の小さなブータン国が生まれるということだ」と。
その国王夫妻が来日し被災地福島を訪れ、国会においてもその爽やかな幸福論の一端を見せ勇気づけてくれた。その演説のなかでブータン国を次のように表現していた。
「国の魅力的な外形的特徴と、豊かで人の心をとらえて離さない歴史が、ブータン人の人格や性質を形作っています。ブータンは美しい国であり、面積が小さいながらも国土全体に拡がるさまざまな異なる地形に数々の寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を反映しています。手付かずの自然が残されており、我々の文化と伝統は今も強靭に活気を保っています。ブータン人は何世紀も続けてきたように人々のあいだに深い調和の精神を持ち、質素で謙虚な生活を続けています。」
多くの日本国民がこの演説に心動かされたのも、戦後の工業化、近代化によって無くしつつあるものを思い起こさせてくれたからであろう。演説のなかで使われているキーワードの一つが「調和の精神」である。
こうした「調和」というキーワードにふさわしい穏やかな優しい笑顔を見せてくれたブータン国王夫妻であるが、一方ではTPP参加の是非についての議論が始まった。「調和」とは反対の極にあるようなグローバル競争についての論議である。何度となくグローバル市場について書いてきたが、短絡的ではあるが一言で言えば、販売対象とする市場ばかりか生産拠点や就業労働者を含めたビジネスが地球規模に広がり、関税を含めた障壁を撤廃して自由競争を行なうということである。つまり、顧客支持を得た強いものが勝つという市場のことである。弱肉強食といえばそうであるし、恐らくスタートしてから一定期間は企業間、地域間、個人の間の経済格差はより激しくなる。つまり、勝者は大きな利益を得、敗者は市場から消えてゆくということである。課題は産業構造が変化した時、就業していた人達が、新産業へとうまく移行できるかにかかっている。そして、この時期冷静に過去の歴史、産業転換の歴史を辿ってみることも必要で、俯瞰的に見れば日本国内においては市場の多くは既にグローバル化しているという事実である。
さてこのグローバル化はいつから始まったのかというと、例えば私がテーマとする消費に密接な小売業の分野では地元商店の保護を目的として1970年代に制定された大店法があった。確か1990年代初頭の日米構造協議のテーマの一つであったと思うが、米国の外圧により規制が緩和され、そして廃止された。その結果、大型商業施設が次々と地方都市の郊外に誕生する。そして、次第に地方都市の中心市街地には競争結果として空き店舗が目立つようになり、やがてシャッター通り化し、今日に至る。
TPPの詳細内容は未だ明らかにはなっていないが、この日米構造協議を経た大店法の廃止とどこか似ている。勿論、その後地域商業の活性、空洞化した中心市街地の再生を目的に、いわゆる「まちづくり三法」が制定されたが、周知の通り地方再生への道のりはまだまだ遠い。
以前、東京で勝ち残れれば世界の都市への進出の入り口になる。東京は東京であると同時にTOKYOでもあるとブログにも書いた。自動車産業を始めとした製造業だけがグローバル競争しているわけではない。例えばユニクロはNYでも上海においても、GAPやZARA、H&Mといった企業と競争している。流通も百貨店だけでなく、ファミリーマートのようなコンビニも中国へと進出し、ラーメンを始めとした飲食業もかなり前から東南アジアを中心にグローバル化している。いや、こうした第三次産業の例を挙げるまでもなく、誰もが知っているアニメ、マンガ、といったサブカルチャーを筆頭に「クールジャパン」商品群が世界中を駆け巡っており、その流れの先には注目の「AKB48」も入ってきた。
ところで仕事上、先日神奈川辻堂にオープンした「テラスモール湘南」を見てきた。住商アーバン開発が開発した店舗面積6万3000平方メートルという巨大商業施設である。店舗数281店、つまり日経MJは”テナント多彩 楽しみ<一人十色>”と表現したが、他の商業施設に出店している主要専門店のほとんどが金太郎飴の如く勢揃いしたということである。近隣の駅ビル商業施設を始め旧商店街などには大きな影響が出てくることは間違いない。ただですら空き店舗が目立つ地方商店街はシャッター通り化するであろう。
この「テラスモール湘南」の出店企業を見ていくと、既に押し寄せるグローバル化の波がわかりやすく出ている。多くの海外企業が日本に進出しているが、まだまだ進出していない企業もあり、例えば英国から日本初出店の「キャズカフェ」には長い行列が出来ていた。そして、周知のGAP、ZARA、H&M、と共に日本企業ではユニクロ、無印良品、といった世界の主要都市で競争しているカジュアル衣料量販専門店群も出店している。このユニクロも無印良品もヨーロッパに進出し大きな失敗をし、それら経験を踏まえて今日に至っている。
しかし、こうした企業群を見ていくとグローバリズム一色のように見えるが、けっしてそうではない。1Fの食品フロアやフードコートを含め食品専門店や飲食施設のなかには、数は少ないが横浜や鎌倉の名店が出店している。
一年程前であったと思うが、「ユニクロ栄えて、国滅ぶ」と、国内産業の空洞化とデフレを促進させる元凶であると月刊誌の掲載を通じ発言した経済学者がいた。しかし、大量生産、大量販売によって、均質な製品をどんな場所でも安く手に入れることが可能となった。ユニクロがいみじくも代表するように、物質的な豊かさを手に入れてきたことは事実である。あるいは地方都市の郊外に進出している大型商業施設は買物だけでなく、映画を観たりゲームをしたり、家族で食事もして楽しく半日を過ごすことができるようになった。しかし、中心市街地の商店街はシャッター通り化し、更には進出した大型商業施設自体が経営に行き詰まり、撤退した後はどうなったか。何年もの間、閉鎖され野ざらし状態が続いているのも事実である。そして、今夜の夕食を相談する魚屋や八百屋はなくなり、デパ地下やスーパーには調理済みのパック惣菜ばかりが店頭に並ぶようになった。我が地方の味、我が家の味、おふくろの味は給食とデパ地下&コンビニの味にとって代わった。こうした均質さから脱却するかのように、クッキングスクールがはやり、使って楽しいキッチングッズが多数生まれた。B級グルメのグランプリが注目されるのも、おうちでご飯がブームになるのも、手作り、、ここだけ、固有、・・・・・少し大げさではあるが地域や家庭文化への興味と回帰といった現象が消費のいたるところで出てきている。ある意味、デパ地下のお惣菜も買うが、週末だけは手作り料理を楽しむといったバランスのとれたライフスタイルに向かっているということだ。
大分長くなってしまった。次回もグローバリズムとローカリズム、競争と調和、均質と固有、変化と移動、・・・・・・・・この時代の大きなテーマについて引き続き書いてみたい。(続く)
2011年10月19日
◆居心地の悪い空気感
ヒット商品応援団日記No520(毎週更新) 2011.10.19.
ブログの更新に大分時間が経過してしまったが、前回「安全の見える化」というタイトルで原発事故による放射性物質の拡散による検査結果を具体的な数字をもって表示することが安心・信頼獲得への道であると書いた。その後、やっと日経MJ(10/12号)はどこまで検査数字を表示したらよいのか小売現場では困惑していると取材レポートがあった。この取材のなかで「通販生活」で知られているカタログハウスではチェルノブイリ事故後ウクライナが制定した安全基準に基づいた基準、放射性セシウムは果物では1キロ当り70ベクレル以下、野菜は40ベクレル以下とし、検査数字を店頭表示している。ちなみにこのカタログハウスの基準値は日本政府の暫定規制値500ベクレルと比較してかなり低く設定されている。更に、あのエブリデーロープライスを実現した中堅スーパーのオーケーでは消費者の要望から野菜・果物については西の地域の商品仕入れとし、割高となった物流コストから価格表示にはその旨を説明し了解を求めるといった店頭表示としている。前回私が指摘をしたように「安全の見える化」が始まっているということだ。
また、先日東京世田谷の区道で高い放射線量を計測したとして詳しく調べて欲しいと市民団体から区に対し要請があった。詳しく調べた結果、幸い放射性物質がラジウムであったが、横浜市港北のマンション屋上など3カ所からはストロンチゥムが検出され、千葉船橋市の公園ではセシウムの線量の高い場所が発見され除染された。更にその後都内葛飾区や足立区でも同様のいわゆるホットスポットが見つかった。既に多くの住民、市民団体が線量計を持って調べに向かっているということである。本来であれば行政が行うべきことであるが、汚染が広域に広がっていることは分かっており、一種の自己防衛策であるが、行政と住民とが一つの仕組みとして汚染マップを作り、除染も住民が行えるところとプロに任せるところを明確にして実行しなければならない。
市場は心理化されていると何度かブログにも書いてきたが、情報の時代ならではの特性である。心理を動かすもの、それは情報に他ならない。情報のあいまいさ、不可解さこそが不安の源となる。そして、不安はそのままであれば更に増幅される。こうした不安を払拭するには、今回のような放射能汚染の場合、自らが除染という行動に向かい、しかも除染後の線量が低くなる実体験によって不安は解消される。放射能という見えない世界を除染後の数値変化をリアル体験、見える化体験することによって安心が生まれるということである。
もう一つの方法がソーシャルメディアの活用であろう。但し、このインタラクティブなメディアも少し前のやらせブログではないが、生半可な会話であると逆効果となる。一対一の徹底した会話によって、あいまいさ、不可解さを払拭していくことである。米国ではソーシャルメディア担当者の人件費に見合う効果が得られているか、といった投資評価のスタディが進んでいる。IT活用であれ、アナログな店頭でのコミュニケーションであれ、深いコミュニケーションが必要な時代であるということだ。
ところで7月から始まった節電を義務づける電力使用制限令が解除され1ヶ月半ほど経過した。解除から1〜2週間は駅も電車内も明るくなり、エスカレーターも動き、以前のような日常に戻ったなと、あるいは節電による暗さも我慢できる範囲内で慣れればそれほど違和感はないなといった感想をもったが、3.11以前のような活気のある街、一種の喧噪感のようなものはまるで感じられない。iPhone4S発売の行列にも、有楽町駅前の阪急メンズ館やルミネのリニューアルオープンにも、それなりの話題はあるのだが、どこか澱んだ空気に包まれている。
物が売れていない訳ではない。8月度の百貨店協会のレポートにもあったが、例えばロレックスのような高級時計も売れ始めており、永く使えるお気に入り商品への消費も戻って来ている。しかし、3.11の衝撃の裏側では年金の支給年齢の引き上げやG20では消費税を10%とする国際公約が発表され、消費が更に停滞・収縮する政策が進んでいる。こうした漠とした不安と共に、気持ちの落ち着き場所が定まらない、居心地が悪い、そんな空気感が社会に漂っている。(続く)
ブログの更新に大分時間が経過してしまったが、前回「安全の見える化」というタイトルで原発事故による放射性物質の拡散による検査結果を具体的な数字をもって表示することが安心・信頼獲得への道であると書いた。その後、やっと日経MJ(10/12号)はどこまで検査数字を表示したらよいのか小売現場では困惑していると取材レポートがあった。この取材のなかで「通販生活」で知られているカタログハウスではチェルノブイリ事故後ウクライナが制定した安全基準に基づいた基準、放射性セシウムは果物では1キロ当り70ベクレル以下、野菜は40ベクレル以下とし、検査数字を店頭表示している。ちなみにこのカタログハウスの基準値は日本政府の暫定規制値500ベクレルと比較してかなり低く設定されている。更に、あのエブリデーロープライスを実現した中堅スーパーのオーケーでは消費者の要望から野菜・果物については西の地域の商品仕入れとし、割高となった物流コストから価格表示にはその旨を説明し了解を求めるといった店頭表示としている。前回私が指摘をしたように「安全の見える化」が始まっているということだ。
また、先日東京世田谷の区道で高い放射線量を計測したとして詳しく調べて欲しいと市民団体から区に対し要請があった。詳しく調べた結果、幸い放射性物質がラジウムであったが、横浜市港北のマンション屋上など3カ所からはストロンチゥムが検出され、千葉船橋市の公園ではセシウムの線量の高い場所が発見され除染された。更にその後都内葛飾区や足立区でも同様のいわゆるホットスポットが見つかった。既に多くの住民、市民団体が線量計を持って調べに向かっているということである。本来であれば行政が行うべきことであるが、汚染が広域に広がっていることは分かっており、一種の自己防衛策であるが、行政と住民とが一つの仕組みとして汚染マップを作り、除染も住民が行えるところとプロに任せるところを明確にして実行しなければならない。
市場は心理化されていると何度かブログにも書いてきたが、情報の時代ならではの特性である。心理を動かすもの、それは情報に他ならない。情報のあいまいさ、不可解さこそが不安の源となる。そして、不安はそのままであれば更に増幅される。こうした不安を払拭するには、今回のような放射能汚染の場合、自らが除染という行動に向かい、しかも除染後の線量が低くなる実体験によって不安は解消される。放射能という見えない世界を除染後の数値変化をリアル体験、見える化体験することによって安心が生まれるということである。
もう一つの方法がソーシャルメディアの活用であろう。但し、このインタラクティブなメディアも少し前のやらせブログではないが、生半可な会話であると逆効果となる。一対一の徹底した会話によって、あいまいさ、不可解さを払拭していくことである。米国ではソーシャルメディア担当者の人件費に見合う効果が得られているか、といった投資評価のスタディが進んでいる。IT活用であれ、アナログな店頭でのコミュニケーションであれ、深いコミュニケーションが必要な時代であるということだ。
ところで7月から始まった節電を義務づける電力使用制限令が解除され1ヶ月半ほど経過した。解除から1〜2週間は駅も電車内も明るくなり、エスカレーターも動き、以前のような日常に戻ったなと、あるいは節電による暗さも我慢できる範囲内で慣れればそれほど違和感はないなといった感想をもったが、3.11以前のような活気のある街、一種の喧噪感のようなものはまるで感じられない。iPhone4S発売の行列にも、有楽町駅前の阪急メンズ館やルミネのリニューアルオープンにも、それなりの話題はあるのだが、どこか澱んだ空気に包まれている。
物が売れていない訳ではない。8月度の百貨店協会のレポートにもあったが、例えばロレックスのような高級時計も売れ始めており、永く使えるお気に入り商品への消費も戻って来ている。しかし、3.11の衝撃の裏側では年金の支給年齢の引き上げやG20では消費税を10%とする国際公約が発表され、消費が更に停滞・収縮する政策が進んでいる。こうした漠とした不安と共に、気持ちの落ち着き場所が定まらない、居心地が悪い、そんな空気感が社会に漂っている。(続く)


